プロフィール
きっかけ(1974〜1980)
最初に楽器に触れたのは幼稚園の時のようです。自分自身ではもう殆ど覚えていないんだけど、入園して最初に仲良くなった子がヴァイオリン教室に通っていて、一緒に行きたいと言い出したのが最初のきっかけらしい。(母談)
そのヴァイオリン教室というのが、ご存知才能教育。最初は町田にあるなんか小汚いアパートの一室に通ってた記憶がうっすらとある。この時の先生はO熊先生というおじいちゃんの先生だった。とてもやさしい人で、この時はとても楽しくヴァイオリンを弾いていたように思う。
余談だが、現在(2004年2月)浜響の2ndトップのI田さんもほぼ同じ時期にO熊先生に習っていたらしい。もしかしたら一緒に弾いていたのかも?と考えると、人の縁って解りませんね〜。
この時期一番印象に残った演奏会は、全国の才能教育の人達が東京の武道館に集まって一斉に弾いたやつ。なんかやたらでかいステージに訳も解らず連れて行かれ、知らない人達とその場で一緒に合奏した記憶がある。
その後レッスンの場を経堂にある歯医者さんの家に移り、西宮に引越しになる小学校二年生の夏までO熊先生に習いました。
ヴァイオリンをやめる(1980〜1983)
さて引越した西宮でも才能教育でヴァイオリンを続けました。先生はY本先生。
どうもあまり熱心な先生ではなかったようで(母談)、この頃からだんだんとレッスンが、ヴァイオリンが嫌いになり始めました。
小学校四年生に入って塾に通い始めたのをきっかけに、とうとうヴァイオリンをやめてしまいました。今となっては続けておけば良かった〜なんて思いますが、当時はイヤでイヤでしょうがなかったですね。
そんな訳でしばらく音楽から離れることになりますが、小学校の部活で鼓笛隊なるものに入れられ(確かどっかの部活に入らなきゃいけなかったはず)6年生の間だけトロンボーンを吹いてました。でもちっとも上達しませんでしたね。でもこのことが、後々の音楽人生を支配することになるのです。
打楽器を始める(1983〜1989)
さて、ヴァイオリンをやめてまで塾に行ってた甲斐あって(?)エスカレータ式の私立中学校に入学します。ここは帰宅部もOKだったのですが、せっかくトロンボーンをやったので吹奏楽部にでも入ろうと思い部室に行くと既にトロンボーンは定員になってました。そこでいくつか他の楽器をやってみないかと言われた一つに打楽器があったのでした。
最初の頃は主にシンバルやバスドラを、高学年になってからはティンパニを中心に演奏していましたが、一番のお気に入りの楽器はボンゴやコンガなどのラテンパーカッションでした。
打楽器はヴァイオリンをやめて以来、久しぶりに音楽が楽しいと思える楽器でした。思春期の一番楽しい時期とも重なり、どんどん打楽器にのめりこんで行ったのですが、当然お勉強の方は疎かになっていきました。その結果として一浪することになったのです。
打楽器奏者を目指す(1989〜1992)
一浪して予備校に通ってる最中、一足先に大学に進学した友達から、学園祭やライブハウスなんかでドラムを叩いてくれないか、という悪魔の誘いが来ます。
当時は両親との反目もあってそのまま進学しても良いのか?という若さ故の悩みを抱えてたこともあり、この時期に音楽で、パーカッションで食っていく!と決心したのでした。
結局大学には行かずバイトをしながら(要はぷーたろう)バンド活動を行っていったのですが、バブルがはじけ、バンドブームを支えていたイカ天も終わり、だんだんプーでいるのが難しくなってきました。
ちょうどその頃こじれていた親子関係を、恩師が修復の橋渡しをしてくれたのですが、放蕩を繰り返してきた僕が家に戻る条件として、「音楽で食っていくのならちゃんと学校で勉強しろ、だめなら普通に働くか大学に行け」でした。そこでたった一年だけ猶予が与えられ、生まれて始めてピアノや楽典なんかも勉強しながら音大を目指したのですが、当然素人の付け焼刃、そんな簡単に音大には入れず、ここで僕の音楽で食っていくという夢は終わりを告げるのでした。
音楽空白期(1992〜1999)
音大に受かろうが落ちようが、自分の才能に限界を感じていたこともあって、あっさりと次の道を行くことになります。
ここから6〜7年、音楽からは離れた生活をすることになります。たまに昔の仲間や高校の時の友達なんかと遊びでライブハウスやスタジオに入ったりしましたが、仕事の関係で実家から離れてしまったこともあってその回数は年に数回程度になりました。もう昔のようにこれしかない、って思い込みがなくなった分とても楽しく音楽ができるようになったのです。今までは嫌々レッスンに行ったり、部活で半ば強制的に、そして人生の目標として音楽を自分に強いた生活を送ってきましたが、その呪縛から解放されたこの時期、趣味でやる音楽の楽しさを初めて知ったような気がします。
最初のうちは仕事が忙しいこともあり、いままでのプレッシャーから解放されたこともあって音楽のない生活を寂しいと思わなかったのですが、だんだんもの足りなさを感じてくるようになりました。そう感じていた頃、また自分の人生を変えるようなある出来事が起こったのです。
再びヴァイオリンを始める(1999/4〜)
ことの発端は友達の結婚式でした。一緒に招待された友達となにか余興ができないかね、と相談していた時

えび: 「定番は音楽だよね〜」
友達: 「ピアノならできるんだけどなぁ」
えび: 「僕はドラムなら…ピアノとドラムじゃぁなんにもできないね」
友達: 「せめてギターとか弦楽器だったらなぁ」
えび: 「弦楽器ねぇ、そいや子供の時にヴァイオリンやってたなぁ…」
友達: 「決定!」
えび: 「え…?」


多少脚色は入ってますが^^;だいたいこんなような経緯で再びヴァイオリンを始めることになったのでした。
しかしいろいろ難問がありました。まず楽器がない。子供の頃の楽器は小さく、しかもカビたりしてボロボロでした。そこでサイレントヴァイオリンを買うことにしました。(この時、後々Y社に行くことになろうとは夢にも思ってませんが…)理由として、リバーブが効かせられるので、多少の音程の悪さやへたっぴさをカバーしてくれそう、と思ったからです。それにこれくらいの値段なら、これですぐやめても、また別の機会に弾くことがあっても遊びで続けるにしてもどっちでもいいや、と思えたのもあります。
もう一つブランクの問題がありました。(こっちの方が深刻か^^;)
余興の話しが出たのが4月、式は5月、1ヶ月しかありません。いくら子供の頃に習っていたとはいえ約20年、全然さわっていなかった楽器を弾くことができるのか…そもそもイヤでしょうがなくてやめた楽器を、仕事をしながらそんなに練習する気にもなるのか?
結果として、余興は大成功でした。それは演奏はつたないものだし失敗だらけだったけど、最後まで弾いて新郎新婦をはじめ見ず知らずの人からも「良かったよ!」とお世辞にも言われれれば、それはとても嬉しいものでした。
この時、人に喜んでもらう嬉しさ、アンサンブルをする楽しさというものを初めて知ったのです。
このことを転機に再び音楽、ヴァイオリンにはまっていく人生を歩むのでした。今ではこのチャンスをくれた彼らと、子供の時にヴァイオリンを習わせてくれた両親にとても感謝をしています。
オケに入る(1999/10〜)
さて再びヴァイオリンを始めた僕は、まるで今までのブランクを埋めるように練習をしました。とりあえず子供のときの教本をひっぱりだしてきてそれをさらい始めたのですが、びっくりしたのが意外と覚えていること。最終的に鈴木の教本の7巻までやったのですが、その殆どの曲を今でも暗譜していたのです。恐るべし、才能教育。
再開してから約半年、そろそろ一人でやっていくことに限界を感じて、とりあえずどこかヴァイオリン教室にでも入ろうかと思いネットで調べ始めました。すると「山梨交響楽団(梨響)・団員募集中」の文字が目に入りました。「へぇ、山梨なんかにもオケがあるんだぁ」と思ったのですが、当時アマオケというものがこの世に存在することすら知らなかったので、素人でも入れると知ってびっくりしました。
とりあえず見学いつでもOKっていうから見るだけ見てみるか…と軽い気持ちで行ったのが運の尽き。何故かその日のうちに入団していてその日のうちに歓迎会に連れていかれ、さらに翌日は何故か本番にまでのってました^^;;;;;;
これからさらに音楽、ヴァイオリン、オケの生活が加速度的に充実していきます。
充実してきた音楽生活(1999〜2002)
最初のうちはサイレントヴァイオリンしかなかったので、オケの人の予備楽器を貸してもらって弾いていました。なんせ初めてのオケ、最初は解らないことだらけでした。例えばイン(一つの譜面台で二人並んでいる内側の方)の人が譜めくりするとかボーイングをみんなであわせるとか、コピーした譜面を製本をするとか。それに僕は楽器のチューニングが最初できなくて、いつも隣の人とかに楽器を渡してチューニングしてもらってました^^;今思うと、よくこんなやつ入団させたもんですね。
この時期、ヴァイオリンを弾くことが楽しくてしかたなかった僕は、どんどん音楽の幅を広げていくのでした。
まず梨響のコンマスでヴァイオリンの先生だったK石さんのレッスンを受けるようになります。これでだいぶ基礎からみっちりやり直されました。
次に梨響の弦の有志で作られた室内楽団、梨響チェンバーオーケストラに入って室内楽を始めました。フルオケに比べて人数がぐっと減ったので、音を出す責任が増して良いプレッシャーと共に良い勉強にもなりました。
そのうち、結婚式やイベントなんかで弾いて欲しいという依頼もくるようになりその都度カルテットを組んだりしてたのですが、正式に固定メンバでカルテットを始めるようにもなりました。名付けて「AB(本名)カルテット」…^^;いや、名前がなかったんで便宜上そう呼ばれてたんですけど、結局最後までこう呼ばれてしまいました。
それ以外にも多数のトラ出演をしたりで相当忙しい音楽生活を送るようになりました。月に5〜6回本番があったり…
さらに加えて、オケの運営面にも携わることになります。当初庶務として、それから広報担当に移り宣伝活動やHPの運営なんかも行いました。そのうち定演やその他の演奏会の実行委員長もやらされるようになり、僕の人生で今までにない充実した生活を送るようになるのでした。
そして浜響へ(2002〜)
音楽人生は充実してきた一方、本業の仕事の方がだんだん肉体的にも精神的にもきつくなっていきました。(オケやりすぎっていうのもあるんだけど)
そこで今の自分の仕事も、趣味の音楽も生かせる職場に転職しようと思い現在のY社に中途で入社し浜松に移り住んだのです。当然そこでも僕の音楽人生は途切れることはなく、浜響に入団し現在に至っています。
以前の梨響チェンバーのように室内楽の団体、ソナスアンサンブルにも入って室内楽も続けています。カルテットもまた気の合うメンバーで集まってまた続けていきたいですね。それ以外にもヴァイオリントリオや弦楽トリオでなにか演奏会に出ようか計画中です。そうそう、最近名フィルの2ndトップの矢口先生のレッスンも始めました。
なんの縁もゆかりもない浜松という地に来て、とても素敵な友達が沢山できたのは音楽をやっていたおかげだと思います。
このページの先に今後どんなプロフィールが追加されていくかわかりませんが、きっと音楽は死ぬまで続けていくんじゃないかなって思っています。

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